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記:4月23日(土)14時から
場所:人文研本館3階 セミナー室4
報告:立木康介
タイトル:対象のモノ化、モノの対象化─「媒介」される生の運命


【概要】
当時の最新メディアのひとつだった「電話」に、魅せられつつも違和感を禁じえなかったプルーストは、『ゲルマントの方』において、このメディアが生み出すコミュニケーションの印象について、語り手にこう言わせている─
「あの人だ、私たちに話しかけるあの人の声だ、ここに聞こえているのは。だが、この声はなんと遠いことだろう! それに不安なしで耳を傾けられないことが、いったい幾度あっただろう、あたかも、すぐ耳元に声が聞こえている女性でも、何時間も旅をしなければ会うことができないという事実のために、私にはむしろ、どんなに甘美な接近と見えるもののなかにも存在する失望の種のほうがよりはっきりと感じられるとでもいうかのように。それにまた、手を伸ばすだけで愛しい人たちを引き留められそうな気がする瞬間に、私たちはどれほどその相手から遠く隔たったところにいることだろう。こんなに近くに聞こえるこの声は、ほんとうにそこにある─実際には引き離されているのに!」
現代の私たちにはややオーバーにすらみえるこの反応は、しかし、電気通信メディアが可能にする物理的距離の削除(もしくは超越)に根源的につきまとう(とかつては感じる人もあった)奇妙な逆説を証言している。科学テクノロジーによって間近に引き寄せられた対象のうちに、ときに絶望的なほどの「遠さ」が感じられてしまうという逆説だ。同じ逆説は、1950年の講演「物」において、ハイデガーによっても捉えられている。

曰く、「あらゆる距離が性急に削除されても、それはいかなる近しさ(Nähe)ももたらさない」と。「物」に固有の近しさを置き去りにしたこの「一律の距離喪失」は、それを「物の殲滅」とみなすハイデガーにとって、核兵器が引き起こしかねない惨事にもまさる「不気味」な現象だった。ハイ デッガーのこの着目は、「スペクタクル」のうちに私たちの生の「分離」を見てとるギ・ドゥボールや、この「分離」を資本主義社会に固有の聖不能性(使用不能性)に重ねるアガンベンの思考に流れ込み、ひとつの水脈を形作っているようにみえる。私たちは、そこから何を読みとることができるだろうか。現代文明を生きる私たちが、好むと好まざるとにかかわらず、それに取り囲まれて生活している無数のメディアは、私たちと対象(他者や物)の関係にいかに食い込み、それをいかに変化(変質)させているのだろうか。みなさんとともに考えてみたい。
以上は2013年に上梓された拙著『露出せよ、と現代文明は言う』の第二章に沿った内容だが、今回の発表では、書中では割愛されたアイデアや、出版後に芽生えた視点などを交えて、議論を進める予定である。

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