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2016年6月10日(金)

【報告者】

中野耕太郎

【タイトル】

「現代」のおわり、現在のはじまり ―歴史のなかの1970年代アメリカ―

【概要】

アメリカ史の中には、合衆国を世界史上に例外的な理念国家と見る伝統が色濃く存在する。

ここでは、自由や平等といった普遍価値とこれを保障する市民地位(citizenship)こそが歴史的に国民形成の最大のリソースを提供してきたと。

だが、そうした究極「近代」としての自画像は、19世紀末には変容を迫られた。急激な都市化、工業化
と知識人による「貧困の発見」は、人々の民族的出自や生活水準を厳格に監視し、文化的な共同性を求めるタイプの新しい政治空間を生み出していった。さらに、このアメリカにおける「社会的なもの」は、第一次大戦期の総力戦を媒介して、官僚制的な国家機構と相互浸透していく。ここに、軍事動員と社会保障、そして人種主義をよすがとする「現代」アメリカが生成したのであり、かかる政治秩序は第二次大戦後の「冷戦」を内的に維持する装置でもあった。
 しかし、上のように近代普遍のアメリカニズムと区別して「20世紀国民秩序」の現代史を語ったとして、それが説明しうる射程は遅く見ても1973年頃までである。ベトナム戦争に敗れ、ウォータゲイト事件に傷ついたアメリカでは、連邦政府による救貧や企業規制の施策が全く支持されなくなり、折からのインフレと失業の同時進行で破綻した人々の生活は自助の金言のもと放置されつづける。1970年代の文化的基調はグローバルな市場の価値への帰依であり、極度の個人主義への傾斜――ジャーナリストはこれをMe-ismと呼び、哲学者はナルシシズムの時代と名づけた――だった。社会的な共同性が繰り
返し喚起された「20世紀秩序」時代とは異なり、人々のコミュニティや政治へのコミットメントは縮減していく。
 他方70年代には、先行する60年代公民権運動の成果である、反人種差別・反性差別の価値感が定着し、国際的な文脈でも人権の至高性が強く訴えられた。事実それはアメリカやソ連を含む20世紀の帝国が衰退し、脱植民地化の潮流が明らかになった時代でもあった。しかし、この「解放」は、同時代におけるネオリベ格差社会の容認という新傾向と共存するものでもあった。1970年代は、黒人や女性の政治エリートが急増する一方で、過去の差別の是正を求めるマイノリティの要求が逆差別だと論難され始めた時期でもある。加えて、「社会的な」国民国家の解体は、かつてこれを支えた労働組合を事実上
「消滅」させ、個人化し浮遊するホワイト・エスニック労働者(失業者)は、素朴な人種差別主義や宗教右翼のポピュリスト政治に動員されていった。
 このように1970年代の変化を思いつくままに書き出して見たが、その多くが第一次大戦期に形成された「現代」を根底から揺さぶり否定する動きであり、むしろその多くは今日のアメリカや日本の状況に連続性があることがわかる。論題を「『現代』の終わり、現在のはじまり」とした所以である。本報告ではアメリカにおける近代、現代という時期区分の問題を一般的に考察すると同時に、特に「現代の終わり」としての70年代に何が起こっていたのかを歴史学の立場から、再検証してみたい。具体的には、①「平等」の拡大と市場絶対主義(格差の受容)、②新(宗教)保守主義と「社会的なもの」、③新しい人種主義と多様性の政治、④徴兵制の廃止とmartial citizenship(ナショナリズムと平等化)の行方、という4つの問題領域からこの時代を概観し、議論を深めていきたい。

 

 


<参考文献>
・拙著、『20世紀アメリカ国民秩序の形成』、2015年、名古屋大学出版会(特に終章)
・拙稿、「アメリカ『現代史』の起点を求めて――アメリカ・ナショナリズム再考」
『歴史評論』第780号(2015年4月)

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