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日時:

11月13日(金)14時~
 

場所:

人文研本館1階 セミナー室1
 

報告:

田辺明生
 

タイトル:

統治される人びとの生政治??ポストコロニアル的大衆の時代としての現代



本報告においては、現代をポストコロニアル的大衆の時代としてとらえたい。

それは、統治性(権力、市場、技術)の働きが生活世界全体にまで浸透していく一方で、統治される人びとが生政治的な主体として立ち上がりつつある時である。その背後にあるのは、植民地支配の終わりと、ポストコロニアル的大衆の誕生だ。ただしこれは、被植民者がめでたく市民的主体となったことを意味するのではない。
そもそも帝国的・植民地的近代において市民的主体を認識的・政治的に支えていたのは、他者としての異人種(そして同じく他者としての労働者そして女性)であった。

植民地時代においては、「植民者と被植民者」の区別が「市民と人口」「法と生」などの二分法に重ね合わされる擬制がある程度有効に機能していた。つまりヨーロッパにおける市民的主体は、近代世界における植民地的二分法のもとではじめて成立していた。

とすれば、植民地状況が終わるということは、すべての者が法のもとで普遍的な市民となるということではありえない。そうなると市民的主体を支える他者がいなくなってしまうからだ。
第一次世界大戦このかたの現代世界の中で起きてきたことは、植民地的二分法のあいだ
の不分明な領域の拡がりである。主権国家という普遍的な法制度が元植民地にもつくられる一方で、統治性の政治は現実の多種多様な生の諸様式によりよく対応することを求められる。だが非西欧の諸地域における生の多様性は、法的・市民的な普遍性(世俗的合理性)の前提をはるかに超えるものである。よって、そこでは生政治のために法の例外措置が頻発し、例外状態が日常化せざるをえない。しかしそれでもその状況を例外とすることによって、法は自らを保持しつつ、同時に、政治が生と関わることが可能になっている。つまり、ポストコロニアル的な例外状態という不分明な領域の拡がりが、植民地的二分法を揺らがせつつ、同時にそれを延命しているのだ。
現代世界において、「市民と人口」のあいだに現れているのが「大衆」あるいは「マルチチュード」であり、「法と生」のあいだに現れているのが「生政治」である。その大衆(統治される者)の生政治こそが、現代世界の困難と混乱の場であり、また希望の源でもある。

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