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日時:

2015年10月24日(土)、14時~

 

場所:

人文研本館1階 セミナー室1

 

報告:佐藤淳二

タイトル:

「世界」の始まりと終わり:「作者とは何か」(フーコー)と「万物の終わり」(カント)から現代世界を考える

 

前回の王寺賢太氏の発表の後半を引き継ぐ形で考察していく。王寺氏は、フーコー『生政治の誕生』【邦訳 筑摩書房】に関わる新自由主義批判の部分を論じておられた。それは、発表後の質疑でも話題になったように、現代世界の「政治」の場が、「経済」に規定されるものから、「生命」を中心とするものに変換されてきたという重大な問題提起をはらむフーコーの後期思想の核心に関わるものといえよう。フーコーの場合は、それを「生政治」と表現し、「真理」との関わりで私たち一人一人の「生」の基盤を根底的に問い直す作業が新しい「政治」に欠かせないものとなったこと、そしてそれは社会や共同体という全体的なものへの個の特異な関わりを問うという意味での「倫理」的なるものがまさに前面に出てくるようになったこと、これらを意味しているだろう。今回は、このような倫理の問いを通じて、フーコーが晩年に論じたカント論も遠く視野に入れつつ、まずは、人文学の基礎的な意味づけをフーコーの比較的古い議論(1969年の講演「作者とは何か」)を通じて確認し、関連する範囲で「構造」ないし「構造主義」の問題に触れる。現代(ないし「啓蒙」以降の時代)における「起源」(始まり)の

問題とその限界をできるだけ確認しておきたい。そのようにして始まった世界は、カントによって最初に理論化されたものだが、この難解な思想家の不思議な文章「万物の終わり」を取り上げて、世界を始めた思想家がいかにその終わりを論じていたかを考えることにしたい。この作業を通じて、「歴史の終焉」と言われつつも「生命科学」はまだ終わらない(経済ではなく人間工学・生物学がこれからの時代の中心だということ)という、奇妙にもフランシス・フクヤマとミシェル・フーコーに共通して見られるような一致が啓示する現代の意味を探っていきたい。

 

文献: 

・M. フーコー「作者とは何か」清水徹・根本美作子訳 ちくま学芸文庫『フーコー・コレクション2』文学・侵犯 所収I.

 

・カント 「万物の終わり」篠田英雄訳 岩波文庫

『啓蒙とは何か 他4編』所収

 

 

本来時間があれば、「権力(権力ー知)」や「統治」をルソーと関連させるフーコー『安全・領土・人口』1977-78年コレージュ・ド・フランス講義 邦訳筑摩書房 の1978年2月1日の最高度の重要性を持った講義にも触れるべきかもしれません。

 

ひょっとすると質疑のところで話題になるやもしれませんが、しかし、これはジョルジョ・アガンベン『王国と栄光』高桑和巳訳 青土社の後半(付論部分)のルソー論などと関連する興味深いものであるだろうとは思いつつ、またそれはフーコーとアガンベンの差異や如何?という深刻な問題も惹起するものではなかろうかと朧げに私念するものの、いまだ具体的に述べる段階にないことを正直に告白せねばなりません。

 

この点に関しては、当日の会場の皆様のご教示を得られれば幸いでして、詳しくは改めて後日を期させていただきたく思います。

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